甲州街道と内藤新宿
 甲州道中(甲州街道)は、徳川家康が慶長・元和年間に行った五街道
(ほかに東海道・中山道・奥州道中・日光道中)のひとつで、江戸から
甲府を経て下諏訪で中山道に合流します。
 この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発
して四里八丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
 そこで浅草阿部川町(現元浅草四丁目)にすむ名主喜兵衛(のちの高
松喜六)は、元禄10年(1697)に同士4名ととも、太宗寺の南東
に宿場を開設するよう幕府に願いをだしました。
 なぜ喜兵衛らが宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませ
んが、5人は開設際し運上金5600両を納めることを申し出ました。
 この願いは翌年元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿
場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部や
旗本朝倉氏の屋敷など返上させて、これにあてました。
 こうして「内藤新宿」は元禄12年(1699)2月に開設のはこび
となり、同年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主
などをつとめ町政を担当しました。

 宿場は東西九町十間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷
大木戸)の約200m西から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅顔道の
分岐点であった)あたりまで続いていました。
 宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれ
ました。太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人な
どが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を
取り扱う施設)などがありました。
 「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる四宿(品川・板橋・千住・新
宿)のひとつして繁栄しましたが、その繁栄を支えたのが旅籠屋でした。
ここには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(170
2)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁
盛しました。

 このように大変な振るわいを見せた「内藤新宿」でしたが、享保3年
(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。
 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れた
ことなどが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に
伴う風俗統制の影響もあったようです。
 その後、度重なる再興の願いにより、昭和9年(1772)には宿場
は再興されました。

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