寺院散策・寺院散歩・寺院探訪
台東区・橋場・清川の寺・寺院を歩く
台東区清川1−13−13
其角の句碑(きかくのくひ)




石碑の正面上部に横書きで「采女塚」とあり、その下に仮名
混じり文でその由来を刻んでいる。
江戸時代の初期、寛文年間(1661〜72)新吉原雁金屋
の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。采女は悲しんで浅茅ヶ
原の鏡が池に身を投げた。時に十七才。翌朝、草刈り人達が
「名をそれとしらずともしれさる沢の
あとをかがみが池にしずめば」
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。
浅茅ヶ原は、現在の橋場1,2丁目と清川1,2丁目のあた
りを指し、「江戸名所図絵」によると、鏡が池の面積は、文政
(1818〜29)の頃、訳五百平方メートル、橋場一丁目の
北部あたりにあったという。
碑は、文化元年(1804)太田南畝ら文人たちによって
建立。第二次世界大戦で火をあびている。
草茎をつつむ葉もなき雲間哉
碑の正面に宝井其角の句を刻む。
其角の著「末若葉」によれば、これは元禄九年(16
96)正月、弟子を連れて当寺に遊んだときに詠んだ句
であるという。碑はこの風流の故事を顕彰して、寛政五
年(1793)に建立された。
其角は、寛文年間(1661)の生まれ。榎本ともい
った医師竹下東順の子。十四、五才のころ、芭蕉に入門
し、早くから頭角をあらわしたという。天和三年(16
82)蕉風の先駆とみなされる「虚栗」を編集し、芭蕉
の新しい俳風の確立に活躍した。いわゆる蕉門十哲の第
一人者とされたが、芭蕉の死後、次第に蕉風をはなれ、
清新華麗な独自の句風をなし、江戸俳壇の中心となった。
宝永四年(1707)没。
なお、右側面に刻む「くさぐさの今にのこるや人の口
屠竜」は、姫路城主酒井忠以の弟であり、当時根岸に
住んでいた画家酒井抱一の句である。
