寺院散策・寺院散歩・寺院探訪
東京・台東区谷中の寺・寺院を歩く
台東区谷中5丁目2−22
狩野芳崖(かのうほうがい)墓(台東区史跡)




死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの
死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した。塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともい
う。関東地方では、秩父地方産の緑泥片岩を用い
鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。
頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条
線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、
仏像、または梵字の種子(阿弥陀如来の種子「キリーク」が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ
長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の
板碑一基がある。
明治初期の日本画家で、文政十一年(1828)長府藩御用絵師狩野
晴皐の長男として、長門国長府(現・山口県下関)に生まれる。
十九歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川
院門下の龍虎とうたわれた。
明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏
に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本画復興運動に加わり、
明治十七年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美
術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を
基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西
洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表
作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)はいずれも
重要文化財である。
明治二十一年、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現東京芸術大学
美術部)の創設に尽力したが、開校間近の同年十一月、六十一歳で没し
た。
墓所は当寺墓地の中ほどにあり、明治二十年没の妻ヨシとともに眠る。
また、本堂全面には芳崖の略歴・功績を刻んだ、「狩野芳崖翁碑」
(大正六年造立)が建つ。
長安寺の開基は、寛文九年(1669)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ
400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と
何らかの関連があったと思われる