寺院散策・寺院散歩・寺院探訪
東京・台東区・谷中の寺・寺院を歩く
台東区谷中5丁目4−7
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)墓 (都指定旧跡)
弘田龍太郎(ひろたりゅうたろう)墓・曲碑(きょくひ)







落語家、通称出淵次吉、父長蔵は前田備後守に仕えていたが
武士をきらい二世三遊亭円生の門に入り橘家円太郎を名乗っていた。次郎吉も父に従い7才の時小円太を称したが母が商家へ
奉公させた。安政四年(1857)十八才で真打となり、芝居
道具を用いて世話物を講じ芝居噺といわれて大いに名声をあげ
た。やがて普通の落語に専念し、自作自演に新境地を開いた。
自作落語には「牡丹燈籠」「累が淵」「菊模様皿山奇談」
「塩原田助」「英国孝子伝」「美人の生理」「江島屋騒動」
「安中草三」「業平文治」などあり、書画、和歌、俳諧をよく
したが、明治二十五年(1892)業をやめ、同二十三年
(1900)八月十一日没した。年六十二。
鉄舟(1836〜88)は天保七年六月十日、本所大川端
四軒屋敷に生まれ、父小野浅右衛門高福に従って十七才まで
飛騨に育った。再び江戸に帰り山岡氏を嗣ぎ文武百般に通曉
し無刀流を開いた。彼は幕末の動乱に逢い幕府方の恭順が京
都方に理解されないことをうれいて、西郷隆盛に直接談合す
ることを主張し、幕軍総裁勝海舟の同意を得て駿河に向かっ
た。ここで西郷と逢い将軍慶喜や勝海舟の意向を伝え大任を
果たした。すなわち西郷、勝会談の下地を作ったことは大き
く評価される。
明治新政府では各地の参事、県知事を歴任し、のち待従に
なったが、一切経の書写に専念。明治二十一年七月十九日払
曉死去した。謚は「全生庵殿鉄舟高歩大居士」
「春よ来い」「叱られて」などの作曲家。明治二十五年六
月高知県に生まれる。大正三年、東京音楽学校(現東京芸術
大学)を卒業、さらに研究科を修了し母校で教えた。昭和三
年、ドイツに留学、翌年に帰国し七月同校教授に任命された
が、九月には作曲活動に専念するため職を辞した。
弘田龍太郎は、作曲や合唱指導など音楽活動に大きな足跡
残した。さらに晩年には幼稚園を設立、園長となり幼児の音
楽指導にあたった。特に中山晋平らとともに多くの童謡を作
曲したことはよく知られている。その活動は幅広く作品は千
数百曲にも及ぶという。主な作品には、「くつが鳴る」
「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」「お山のお猿」などの童謡、
「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」な
どの歌曲があり、今なお愛唱されている。このはか歌劇、合
唱曲、仏教音楽、舞踊曲など多方面にわたる作曲活動を行っ
た。
昭和二十七年文京区本郷の自宅で亡くなり、ここ全生庵に
葬られた。享年六十歳。平成元年春、親族によって、龍太郎
夫婦が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)
の譜面と、作曲家村松禎三の撰文が浮彫される碑が建立され
た。